TIME WAITS FOR NOR ONE~立川直樹同世代トーク~

第8回 前編

立川直樹が1970年の4月に「ヘッド・ロック」なるタイトルのロック・コンサートをプロデュースする以前のことについては、今までまとまって語られることはなかった。 というか、聞くと(立川さんが)激怒するというウワサがあったのでぼくも含めて誰もちゃんと聞こうとしなかったのかもしれない・・・。
今までも複数のWebサイトで当時の彼の活動に関することが記述されていたのだが、つい最近発売された「頭脳警察」という本では頭脳警察の最初期の活動に立川直樹が大きな役割を果たしたことが関係者の口から語られている。

これは今しかあるまい、とぼくは「頭脳警察」を買い求め、今回のトークを収録した恵比寿のTOOTH TOOTHに向かった。
立川さんはぼくの差し出した本にその場で目を通し始め、そしてぼくの質問に答えて今まで封印されていた「あの頃のこと」を語り出したのである。
この日は15年間に渡って立川さんのサポート役を務めている立川事務所の飯田さんも同席して絶妙な合の手を入れてくれ、その結果、とてもこの場では紹介できないものも含めて非常に興味深いエピソードが披露された。
そこで今回はtachikawanaoki.com初の伏せ字を大胆に導入し、可能な限りギリギリまで当日のトークを再現してみたいと思う。

T=立川直樹 I= 飯田裕人 M=三島太郎)

Before 1970

M: 「頭脳警察」に今、目を通していただいていますが、いかがですか?
T: ぼくはドラムなんかやってないよ、ベースですよ。そこは間違ってるから書いておいて。それでそもそもPANTAっていうのはぼくがつけた仇名なんだよ。
M: パンタロン、はいてたから?
T: そう。パンタロンはいてたからPANTA。面白いから、「PANTA、おまえ、チェックしなかったのか?」って書いておこう(笑)。
ぼくはドラムはやってない、と
I: (ドラムは)全くやってないんですか?
T: ベースキャンプで、皆でふざけてやったことはあるけど、いわゆる、そのバンドで何?って言ったらベースですよ。あとはキーボードはたまにやった。
M: あ、そうですか。
T: でも、キーボードなんて、そんなに別にすごく弾けるわけじゃないから。まあ、コードを押さえてひくぐらいのレベルで。
M: (立川さんとPANTAさんの)お母さん同士が知り合いだったってことなんですけど、それって、そもそもどういう関係なんですか?
T: PANTAのお母さんて看護婦さんだったんだよ。それでうちの祖母が入院した病院に彼女がいて、良くしてくれたんで、うちの母親と交流ができたんだ。
それでPANTAが遊びに来るようになったの。
M: 浅草の家に?
T: 所沢にも家があったの。おばあちゃんとじいちゃんがいた家が。
M: そっか、PANTAさん所沢ですもんね。
T: そう、で、その所沢の家に行った時にPANTAが遊びに来て、知り合ったの。
M: へえ。それは聞かなきゃ誰にもわかんない。かわいがってたって言うのは本当なんですか?
T: ん? かわいがってたっていうか、出入りの近所の子みたいなもんだったから。
M: 立川さんがプロデュースした「ヘッド・ロック」がデビューって(「頭脳警察」に)書いてありますね。
T: まあ、だからそういう関係で出したんだね。日劇の「ウェスタン・カーニバル」も、ぼくが照明とか、舞台美術とかやってたんで(頭脳警察を)出したんだ。
M: あ、そうなんですか?
T: そう。それで、「おまえら、どうせ演奏も下手なんだから、チンコくらい出して、なんかやった方がいいよ」っつったら、本当にやっちゃったんだよね。
それを(当時は)学生運動とかあったんで、みんなが政治的な理由で捉えただけなんだよ。マスターベーションとか何の意味もなくて、ぼくがチンコ出せって言ったから出しただけの話。まあ、本人は深い部分で考えてたかもしれないけどね・・・。
M: へぇ。あの有名な一件はそういうことだったんですか・・・。
(頭脳警察を)「ヘッド・ロック」に出したっていうのは単純に知り合いだったからっていう?
T: だから・・・とりあえず売ってやろうと思ったの。
M: それが70年。
T: うん、70年の4月。で、ここに「ヘッド・ロック」の前に青山のキラー・ジョーズっていうディスコで演奏したって書いてあるけど、これもぼくが関係してた店だからね。 ただ、青山じゃないけどね(笑)。キラー・ジョーズは銀座。田名網敬一さんが内装の絵を描いてた、銀座のディスコ。
立間さんっていう人がやってて、で、ぼくが最初にやったロック・クラブのハシリでもあるサン・ラザールのスポンサーだったの。
M: サン・ラザールっていうのが、(青山の)キラー通りにあった店?
T: そうそう。その後401になった。
M: レコード会社の人が来て、(立川さんに)ライナー書かない?って言ったっていうのはそこなんですか?
T: そう。あ、でもねえ、(その前に)大森庸雄さんが、ムゲンとかビブロスで遊んでる時に、ぼくに、「こんなことやってたら死んじゃうよ」って言ってさ、軽井沢の家とかに行ってた時に、当時、東芝のディレクターだった石坂敬一さんを紹介してくれるんだよ。 それで、石坂さんが、なんかその、最近イギリスの状況が変わってきて、ピート・ブラウンとかがレコード出して、こういうの書けるやつがいないとかって言うから(ぼくが)書きますよとかっつって、書いたのが最初なんだよ。
M: へえー。石坂敬一さんって村八分の面倒見てたんでしょ?
T: そうそう。
M: そのつながりなんですか、村八分との立川さんの関係っていうのは。
T: 関係っていっても、あんまりそんなにないよ。
M: 恒田(義見)さんがHPで当時のことを書いていて。
T: 恒田? 書いてるんだ。
M: ええ。70年に六本木のアマンドで、あ、まず立川さんに電話もらって山口富士夫さんと一緒にやんないかって言われて、アマンドで会ったって。
T: その辺はさぁ・・・記憶がないんだよね(笑)。かなりディープに○○○○○○○○たから(笑)。
M: (笑)それで、六本木のアマンドで待合わせたって書いてあります。
T: 六本木のアマンドの2Fは・・・よく○○○○○に行ってた(笑)。
M: ・・・。
それで同じぐらいにカルメン・マキさんと一緒にジョン・メイオールの前座をやってたという話がありますが・・・。
T: それはねぇ、カルメン・マキがロックをやりたいって、亀淵友香に相談したの。
それでまたその前に、亀淵友香と、ぼくと二人でバンドをやろうって話があったの。ぼくがまだ19歳の時かな。それで、メイソン&キャスって、あの、ママ キャスとデーブ・メイソンとが作ったバンドがあって、亀淵友香は、ぼくと二人で、なんかメイソン&キャスみたいなバンドを作んないかって。
でもぼくはもう、(その時やりたかったのは)プロデューサーで、表に出るのは厭だからそれはないなって言ったの。
そしたら、友香さんが相談に来て「マキがロックやりたいって言ってんだけど」って。 今は信じられないけど、当時はフォークとロックの壁ってすごくあって、フォークのやつがロックやるなんてバカヤローっていう空気だったんで、誰もやんない わけだよ。それで、(ぼくが)マキと会ったら、「何とかして欲しい」って言われて。
それですごくいいやつだったし、かわいかったしさ。ちょっとなんかやってやろうかなって思って、メンバーを探したんだけど、いないんだよ。それで近田(春夫)となんかで知り合ってたんで、近田に、「おまえ、ピアノやんないか」って。
それで、ぼくは楽器をやるのは辞めようと思ってたんだけど、しょうがないからベースやったんだよ、久しぶりに。それでその時のドラムが恒田だったらしいんだよな。ぼく、ジュン坊だったんじゃないかと思うんだけど。
M: ジュン坊って?
T: 金沢ジュン。そこら辺はもう記憶が、ちょっとあいまい。ギターレスのピアノ・トリオでロックをやった、多分最初のバンドだと思うよ。
(それも)近田は生ピしか弾かないんだからね。生ピアノとベースとドラムでロックやったの。「マザーレスチャイルド」とかさ。(彼女が有名になったきっかけは)「時には母のない子のように」だから、その時は絶対、あのゴスペルの曲をロックでやろうとか言って、やったの。
M: で、ジョン・メイオールの前座をやったんですか?
T: それはだから、「ロック・カーニバル」の第1回目ね。
タイガースの田園コロシアムでの仕事が終わって、20歳だったから団塊の世代の天才何とかみたいにして新聞に出たわけだよ、ぼくが。そこに当時、キョー ドー東京のタツさんの№2だった上条さんが会いに来て、こんどウチでもロックをやらなきゃならなくなったんで、「立川さん、舞台美術とかいうのをやっても らえませんか」って話になったんで、「やります」っていうことになったの。
M: じゃその、いわゆるプレイヤーの時期と裏方の時期って完全にかぶってるの?
T: かぶってる。プレイヤーは、(当時は)望んでやったんじゃないんだよ。マキの時は、しょうがなくてやった。
M: そもそもルビーズってなんで始めたんですか?
T: なんかバンドやってたら、スカウトされて。GSみたいの面白いかなってやっただけで。
M: そこで“Mick”になったんですか?
T: それはねぇ、他にちゃんとした理由があるんだけど。まあ、いいだろう?
M: はい(笑)。ルビーズをやってたのって何歳ぐらいの時ですか?
T: 18から19くらいじゃないかね。サミー&チャイルドのが先だったのかも。
M: サミー&チャイルドは、67~70年っていう説があるんですよ。
T: その間にルビーズもやってるし、後期のシャープ・ホークスでもやってるしアンクルっていうバンドでもやってる。
M: アンクルは初耳だなぁ。
T: ソウルっぽい、ブルー・アイド・ソウルみたいなバンドだったんだよ。
I: 今日は話しますねぇ、立川さん。この間、当時のこと聞いてた人は殴られてましたからね。「そんな話、すんな、バカヤロー」って(笑)。
T: しょうがないじゃない、ここまで来ると。ちょっと訂正しておかないとやばいじゃない(笑)。ぼく、ドラムはやってないから(笑)。
M: ルビーズが最初に表に出たバンドですか? サミー&チャイルドの方が先?
T: アンクルが先だったのかな? バンドで言うと、アンクル、ルビーズ、シャープ・ホークス、サミー&チャイルドの4つは、とにかく17~20歳くらいの時、学校生活ともかぶってて、で、サミー&チャイルドで米軍キャンプとかをかなり回ってたんだよ。
M: ああ、それで米軍キャンプだったんですか。
T: そうそう、それが当時、ワンナイトで100ドル取ってたバンドだったんですよ。
I: その当時、100ドルですか。
T: そうですよ。そのサミーっていうのは、とにかくめっちゃくちゃ歌上手いわけ。
M: 今はもう活動していらっしゃらない?
T: うん。サミー&チャイルドの後、稲垣次郎&ソウルメディアでも歌って、その後、ずいぶん前にハワイに行ったとかいう話は聞いたけど、それからはわかんないんだよね。

やっぱりPANTAって、いいやつだったんだ・・・

T: カルメン・マキは、とにかくカルメン・マキ&タイムマシーンというバンドを作ったんだよ。でもそれは一応、任務を果たして。で、とにかくもう、70年代になったら表に出るのはやめようと思ってたから。自分の方針として。
M: なぜ、厭だったんですか?
T: 出ないのがカッコ良いと思ってた。自分の中で。
M: 武道館でのタイガース公演の前座にルビーズが出た時って、立川さんは出てるんですか?
T: 出てるよ。
M: ああそうなんですか。あと、大原麗子さんのバック(をルビーズが)やってる時っていました?
T: いたいた。
M: ほんとに? じゃ、あのジャケットに写ってるんですね。
T: とにかく大原麗子さんのバックやってたのは覚えてる。確かテイチクの杉並スタジオでレコーディングしたんだから。
M: そのあたりは全然、屈託なくやってたんですか?
T: うん。だって、ぼく、今仕事してたって、一戦士としてやる時は何でも平気だもん。
I:M: (笑)。
T: 屈託ないですよ。
M: じゃあ、バンド活動はタイムマシーンが最後ですね?
T: タイムマシーンが最後。何度も言うけど、それはしょうがなくてやった。でも、こうやって話してると(当時の)ぼくはマルコム・マクラーレンみたいなもんだったんだなと思うな。
M: ほんとそうですね。頭脳警察のデビュー当時、重要な関わり方をして、村八分のメンバー同士を紹介して、カルメン・マキさんがロックに移行するきっかけを作ってって・・・。今の立川さんからは想像もつかない。
T: ま、それくらいでいいんじゃないの・・・。
でもこの本に書いてあることは、そんなに間違ってないよ。前後関係の微妙なずれとかは若干あるけども、ドラムじゃなくてベースだよとかキラー・ジョーズが 銀座にあったとかっていう以外は、だいたい合ってるし、ぼくが制作志向っていうのも本当にそうだし。あとは別にさ、72年ぐらいからPANTAや TOSHIたちがどうなって行ったかっていうのも、ぼくは、直接は関係ないし。
あと、そう言えばさ。
M: はい。
T: 80何年かに、どっかのテレビスタジオでPANTAと偶然会ったことがあってね。
I: あっ、ぼくそこ、いましたよ。
T: いたんだっけ?
その時、PANTAが「ホント、ご無沙汰してました」ってうれしそうに言ってきたんだよ。
あの時、あ、やっぱりPANTAって非常にいいやつなんだと(笑)思ったんだよね。あの時に偉そうにしてたら、「バカヤロウ、なめてんじゃないぞ」ってなるんだけど(笑)。
I: ぼくが「立川事務所の飯田です」って挨拶したら、「ああ、立川さんには昔っからお世話になってね」って。自分の持ってるPANTAさんってイメージじゃないんですよね。
T: “頭脳警察のPANTA”っていうイメージじゃないよな。
そういうとこでいくとぼくの中では別に、PANTAとの関係って厭でもなんでもない。
マキだって、こないだすごく久しぶりに、ちょっとお願い事があって行った時に、やっぱりすごく良かったわけ。「久しぶりー」とかって言って、「そういえば、おれ、おまえのこと、口説かなかったな」みたいな話、したり・・・。
M: いいですねぇ、その感じって。映画みたいで。
でも、マキさんの若い頃ってすっごいきれいですよね。もちろん、今もきれいですけど。
T: メチャきれいだった。セクシーだったし。ほんとに口説いてもよかったくらい (笑)。
I: そのマネージャーが吉永さん?
T: 違うよ(笑)。でも吉永は今度1回連れて来て、この話に混ぜてもすっごい面白いな。
M: 面白いですよね。材木屋さんの息子さんで、立川さんの仕事の舞台設営を手伝ったっていうとこから掘り起こしたいですよね。
I: 吉永さん、今だに、「だまされたんだ、あのオヤジに」って言ってますからね・・・。
M: つまんない人間にだまされるより、素敵な人にだまされた方が、人は幸せでしょう(笑)。
T: あいつに貸してる金は、材木屋を継いだときに全額返してもらおうと思ってるんだ。
M: これから継ぐんだ(笑)。
T: 当り前だろう(笑)。

過去をめぐるさまざまな思い

M: 立川さん、日本のパンク/ニュー・ウェイブにはあんまり興味なかったですか?
T: 最初、嫌いだったからね、パンク自体。基本的にぼく、上手いものが好きで素人嫌いだからさ。最終的には思想的な部分でパンクはわかったんだけど、テクニック的にはパンクっていうのは認めたくなかった。
でもね、それで覚えてるんだけど、その後VOWWOWに入った厚見麗(現在、厚見玲衣)と、半年ぐらいかけて「ムーンダンサー」っていうバンドのすごいア ルバムを作ったんだけど、(作ってる途中で)パンクが出てきて、レコーディングしながら、ああもうだめだなって予感がしたんだよね。こういう、プログレッ シブっぽいものっていうのは終わるんだなって自分で思いながら、でも、列車は止まらないから、そのレコードを作り上げなきゃならないわけですよ。
その「ムーンダンサー」はCDで再発された時には、かなりエポック・メーキングなアルバムなんだけど、当時、出た瞬間には(パンクの陰に隠れて)時代遅れになっちゃうわけだよ。
M: ああ・・・。
T: で、「アラベスク」って言うシングルは、当時、今はもうそんなもんないんだけど、テレビ局のオーディションみたいのがあって、全局で一位だったんだから。
M: それって立川さん、作詞なさってましたよね。
T: うん、2曲ぐらいね。
M: じゃがたらとかもだめでした?
T: だから、ああなっちゃうと、自分が関わってたからってわけじゃないけど、フード・ブレインとかタージ・マハール旅行団とか、以前にもっとアグレッシブなバンドがあったわけ。それのなんかこう、リメイクみたいにしか思えなかったんだよね。
一番最初にぼくがプロデューサーっていうか、ま、アシスタント・プロデューサーとしてクレジットされたのが、フード・ブレインだったの。
M: フード・ブレインっていうバンドなんですか?
T: うん。陳信輝と、柳田ヒロと、つのだ☆ひろもいて。
それを、ポリドールのスタジオでやってた時に、プロデューサーが折田育造さんで、ぼくがアシスタント・プロデューサーだったの。それがぼくが21歳の時。
それからタージ・マハール旅行団が出てくる時に、ぼくももそこに加担してて。
そのタージ・マハール旅行団は現代音楽とロックと融合してたのを、記号譜面でやってたからね。
M: 記号譜面?
T: その当時、ラリー・コリウェルが譜面にギザギザとか雷マークとか書いて、ピャーンてファズ・ボックスでやってたようなものを見て、これはアートだと思ってやろうとしてたから。そのあとじゃがたらなんか見ても、ちゃらいことやってんなみたいな感じで。
それと、あれ80年代だろ? だからぼく、そのころは結局(意識が)日本じゃなかった。JAPANの仕事をしたりとか、スクリッティ・ポリッティのグリー ンがプロデュースしてくれとか、サイケデリック・ファーズのリチャ-ド・バトラーがプロデュースしてくれとか言っても、「ああ、そう?」みたいな感じだっ たから。
I: ぼくは立川事務所に入って一番許せなかったのは、その頃、スクリッティ・ポリッティ(の仕事を)蹴ったことなんですよ(笑)。
T: 自分の中では音楽っていうのをこれ以上やってると自分が何かヒット・アルバム・プロデューサーみたいになるのが厭だったから。それでアートのほうとか、映画のほうとかに行ったっていうのもあるね。伊丹さんもいたし・・・。
M: これだけ聞いといてなんですけど、当時の話っていうのは、やっぱりあんまり好んで話したいことではないんですか、立川さんとしては。
T: ぼくさ、誰を育てたのは自分だとか、何をやってやったとかっていうことを、あんまり言いたくないわけ。あと、自分が、何でもできたっていうふうに思われることも厭だし。
だから(今まで)あえて、その辺の話には触れたくなかっただけで。
だって、例えば音楽評論家の人で、ちゃんと楽器なんかできる人ってほとんどいないんだから、日本において。ぼくは譜面も読めたし、楽器も出来たから、やっ ぱ最初にライナー書く時から全部わかってたわけだよ。ぼくは○○○○○と話した時に「バカヤロー、キーボードも弾けないのにメロトロンの原稿、書くんじゃ ねぇ」とか言ったこと、あるぐらいだから。
M: 偉そうに見えたくない?
T: うん・・・。頭脳警察のことにしたって、今度、本が出て、“ウェスタン・カーニバルに出したこととかなんとかっていうのは立川さんの功績が大き かったと思うよ”とか、彼らがぼくらのボーヤをやってたって書かれたから初めて、そういうことはあったとかなかったとか言ってもいいかなと思えるわけで さ。
まああとは、最近になって、みんながいろんなところで(当時のことを)書いたり言ったりし始めたから、まあしょうがないかっていうところなんだけど、極端 なこと言ったら、彼らが書かなければ、頭脳警察が、ぼくのバンドのボーヤだったってのは誰も知らなくて済むわけじゃない? 
そういえば今日、ゴールデン・カップスの映画見てて、土屋昌巳がゴールデン・カップスのボーヤだったって初めて知ったんだけど・・・。
M: それって結構知られてる話ですよね。
T: ぼく、知らなかったよ。
M: カップスの映画ってどんな映画なんですか?
T: 「ワンモアタイム」って、いいんだよ結構これが。秋にテアトル新宿でやるんだけどさ、アルタミラ・ピクチャーズ創設10周年記念映画のドキュメンタリー。

ずっと制作志向だった

T: あと、自分で言うのもなんだけど、これはすごく若い時から、自分が「かわいい」とか「かっこいい」って言われることに対してすごく嫌悪感があった。とにかく早めに老けたかったぐらい・・・。
M: へぇ・・・。いいじゃないですか、かわいいって言われるの。
T: だってさ、ルビーズのときなんかで、一番覚えてるのは、国際劇場で当時のGSの人気のあるバンドっていうのが集まるイベントがあってさ、みんなで セッションみたいに演奏してると、前の方にいるファンが「ミック~」ってずーっと言ってるわけ。それで終わって楽屋にいたら、中心になって演奏してた ○○○○○がバーンって入ってきて、「ミックって誰だ!」て言うから「ぼくです」って言ったらいきなり殴られたんだから。
M: (笑) ひどいですね・・・。
T: 「バカヤロー」って。ほんと、アタマ来たよ。
M: へえー。
T: コスモス・ファクトリーとかで、自分でプロデュースとかやりはじめてからも、どこかにいくと、ファンの子がぼくに「サインして」とかって言ってく ることがあって、それもすごく厭だったんだよな。だからもう、ヒゲでも生やして、とにかくなんか隠遁者のようになるしかない、と(笑)。
M: (笑)。
T: (渡邊)美佐さんだってさ、アラン・メリルがバンド作る時に、「あんた、(もうやらないって言ってて、カルメン・)マキとバンド、やったでしょう? だったらアランとバンドやんなさいよ」って言ってたんだから。
もうそれだけは・・・って言って。
M: 何でそんなに厭なんですか?
T: なんか厭なんだよね。“non-no”が創刊された頃、そこで対談して写真が載った時も、その後、女の子が家の前で、オレンジの籠かなんかもって待ってたりするんだぜ?
対談でオレンジが好きだって言ったんだよな。
すっごい厭だった。敵意を持ってたね、そういうことに対して。
M: アイドルっぽく見られることに?
T: うん。
M: それって何歳ぐらいでなんとなくこう、薄れたりしました? そういうのに対する、厭だなあっていうの。
T: ずっと厭だよ、今も(笑)。かっこいいとか素敵だとか言われるのって厭だね。
M: そうですか?
T: 面と向かって言われると、そういうのは恥ずかしくてしょうがない。
I: 立川さん、ぼくが(事務所に)入る前、テレビにちょっと出てましたよね?
T: でもレギュラーの仕事とか、全部断ってたよ。
I: そう、「飯田、おれがホントに食えなくなったらテレビ出るから。スーツのコマーシャルでも何でもおれはやってやるよ。」って言われた時には、いや、やっぱりそれは「社長、ついていきますよ!」って思いましたよ(笑)。
T: 当時で言えば、コマーシャルの仕事とか11PMの司会やれ、とか、NHKの本多俊夫さんがやってた番組の後で、歌のビッグ・ショーもどきの(番組 の)司会やれ、とかも来てたし、映画だと伊丹さんが出ろとか言ってたのもあるし、藤田敏八さんも出ろっつってたし。でもなんかもう、全て厭だったね。
M: ・・・自意識なんですかね、立川さんの。
T: とにかく、さっきの本(「頭脳警察」)にもあったけど、制作志向なんだよ、そこのところは正しいよね。

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