WORKS~立川直樹全仕事~

1990年 SIDESTORY 1

年表を見ていただければわかる通り、この年の立川さんの仕事量は他の年と比べてもすさまじいものがある。
前年にヴェネチア映画祭でグランプリを受賞した『悲情城市』がこの年、日本で公開され、後年の『紅夢』につながっていく。また、『KIRIN LAGER CLUB』他の音楽プロデュース面の活動も非常に充実している。
冒頭にあるように日本がバブルの真っ只中の時代、立川直樹はどのようなことを考え、活動していたのだろうか・・・。

良いバブルの年、1990年

m: あとで細かく聞いていきますけど、まずこの年の仕事のリストをさっと見ていただいて。1990年の一年だけでこれだけ仕事をなさったということについての感慨を述べてください(笑)。
t: ・・・過剰だよね。尊敬しちゃうね(笑)。
m: こう見るとすごいですよね。
i: 立川さんの一番混沌としてたのはこのときかもしれないですね。企業からもそうですし、いろんなところから(オファーが)来て、超売れっ子になっていく過程っていうか。
t: なんかね、(自分の中に)まだそんなにはっきりとしたルールが無かった頃だし、それと90年ってバブルだから、やっぱり予算はあったんですよ、ものすごく。
たとえば松坂慶子さんの『OPERA』も、南フランス行ってロケをやって。南フランスだけじゃなくて、吉野とかお台場のところなんかでも(ロケを)やって。桜(の花びら)を散らしたかと思えば、ニースに行って教会の前でエキストラ入れて、上から黒い花びら散らすし。
これはね、当時キネマ旬報の橋本さんって――今アジアンポップスやってんだけど――映画館で上映したいって言ったぐらい、自分で言うのもなんだけど、日本にこんなデカダンなものがあるのかっていう出来だったんです(笑)。
m: ぼくが今まで見た資料のなかでは、立川さんが純粋に演出っていうのはあんまりないんですよ。
i: ないです。だから唯一映像も含めてちゃんとやったっていう。思い入れは相当強いんじゃないですか?
t: そうだね。
でも、いい仕事でしたよ。だからその後、映画会社の人は「映画作らないか?」とか言って。その前から言われてたんだけど、それを見てみんな「やるんならやれ」って言ったけど、もうその頃伊丹さんともやってたし・・・「監督も大変だなあ」って(笑)。
m: 「監督も大変だなあ」(笑)、なるほど。
i: いろんな異業種の人たちが監督として出てきた時ですよ。
t: だからやりたくなかったっていうのもあったよね。
i: でも伊丹さんは執拗に言ってましたけどね、「やれよ」と。
で、(立川さんも一度は)やる気になりましたけどね。
t: うん。
i: でも「まだその時期じゃない」って(言ってやらなかった)(笑)。
t: (製作資金を)全額出すからとか、全然ノーリスクでやらないかとか、話はたくさんあったんです。それで、作りたい映画もあったりはしてたんだよ。
m: それってどんな映画だったんですか?
t: あのね、『暗いブティック通り』っていう、パトリック・モディアノの作品があったの。その後『イヴォンヌの香り』を書いたモディアノの、確かデビュー作かなんかなんだけど。
記憶喪失になった奴が私立探偵で、自分の過去を探すっていう話でね。で、ぼくはそれをデヴィッド・シルヴィアン主演でやりたいと思ったんですよ。
i: そう言えば、デヴィッド・シルヴィアンと坂本龍一さんがニューヨークに行ってやってたのって、この時期くらいでしょ?
t: うん。それで、『EMBER GLANCE』もこの年でしょ? その時にデヴィッドと坂本氏とがヴァージン(・レーベル)で最初にやるからプロデュースしてよって言われてたんだけど、結局やらなかったよね。
i: 「なんでやらないんですか?」って聞いたら、「なんでこんな時期におれがニューヨーク行かなきゃいけないの? レコーディングって言ったら3ヶ月4ヶ月行かなきゃいけないんだぜ?」って(笑)。
でもやって、完成してたら面白かったでしょうね。
t: バブルってね・・・いろんな側面があったんだけど今になってみるとすごく良いところもあったと思うんですよ。たとえばこの『東京クリエイティブ』っていうのは西武がスポンサーなんだけどね。
m: これ、メンバーすごいですよね。
i: そう、今は幻ですよねえ。
t: 『EMBER GLANCE』っていうのは、お金の面で寺田倉庫がほとんど全面プロデュースしてるし、このピーター・ グリナウェイとゴルチェとやったイベントも同じような成り立ちなんだけど、この辺の一連の仕事というのは、倉庫会社なり、いろんな会社が当時持ってた、文 化活動をやりたいんだっていう意思に対して、ぼくが「それじゃあ、こうやって有効にお金を使いましょう」って言う提案をした結果が仕事になったっていうこ となんです。
だからバブルって、わけのわからないこともたくさんあったけど、たとえば企業が文化活動に向かおうとする時の姿勢っていうこと一つを取っても、決してネガティブなだけの時代ではなかったと思うね。
i: この辺って(当時で言う)ウォーターフロントですよね。ウォーターフロントは、立川さん、かなりのプロジェクトに絡んでましたね。
t: まあ、そういう意味ではこの年が極致じゃないかね。
m: この1990年あたりがバブルの最後ぐらいですよね?
i: そうですね。だから夜の遊び場所だって、ゴールドもスターバンクもあって、大阪に行ったら「モンタナ・ジャパン」なんていうのもありましたし(笑)。
t: 「モンタナ・ジャパン」(笑)。
それはね、(大阪の)松井君がぼくの舎弟になってすぐぐらいの時に、「おまえ、『ゴッドファーザー』だけで感動してちゃダメだ、『スカーフェイス』も見 ろ」って言ったの。で、『スカーフェイス』ってモンタナって名前が出てくるじゃない? そしたらしばらくしてからぼくのところに来て、「ボス、ぼく、もう ひとつ会社作ることにしました、『モンタナ・ジャパン』っていう名前にしました!」って(笑)。
m: 会社、作っちゃったんですか。
i: すごい内装でしたよね(笑)。
t: もう内装も『スカーフェイス』なんだよ(笑)。
m: お店の?
t: それが店じゃないんだよ、事務所なんだよ。それで、(そこに)行くと「ボス!」とかって言われるわ、秘書はミニスカートのお姉ちゃんだわ、「ボスがお見えじゃ!」とか言って昼間からシャンパン飲むわ、で・・・。
ぼくはその頃疲れてるからさ、夜の10時ごろに1回眠くなるんだよ。そしたら(松井君が)マイクロバス買ってさ(笑)。で、「ボス、これだったらちょっと寝れますよ」って(笑)。
m: (笑)へえー。
t: もうとにかく、バッカみたいに遊んだ、大阪で。「あの人ほんまに東京の人やの?」って言われるぐらい、ほんっとに遊んだね。
i: 確かラルーもこの時ぐらいですよね?
t: そうかな?
i: 原宿に、店を出してますから。
t: それで『ラルー』っていう本まで作ったな。まあ、とにかくおもしろい年だったよね。


●「東京クリエイティブ 都市劇場」メンバー
滑川五郎
清水靖晃
デヴィッド・カニンガム(フライング・リザース)
トータル・ディレクション:毛綱毅曠
舞台空間美術:横尾忠則
空間・発光体:逢坂卓郎
空間造形:真壁廉
(敬称略)

本文に戻る
CHRONICLE 次ページ

Page Top▲

  • TOP
  • PROFILE
  • 立川直樹の内省日記
  • TIME WAITS FOR NOR ONE
  • WORKS
  • ARCHIVE
  • ABOUT THIS SITE